僕らはもっと未来の話をしたい。

株式会社サンワカンパニー
代表取締役社長 山根 太郎氏

大学卒業後、伊藤忠商事株式会社の繊維部門に入社。2014年、住宅設備機器・建築資材のインターネット販売を営むサンワカンパニーの創業者である父の死去に伴い社長に就任。(就任当時は東証マザーズ最年少社長)。異業種出身の経験を生かし、住宅設備機器では珍しいインターネット通販を推進。業界の枠に囚われない積極的な事業を展開。2018年10月『アトツギが日本を救う―事業承継は最高のベンチャーだ―』を出版。今後も改革を進める山根氏にJAC Recruitment 顧問(元代表取締役社長)の松園健がインタビューしました。

病気の父から「跡をやってくれるか」と託された会社

株式会社サンワカンパニー
代表取締役社長 山根 太郎氏

松 園

山根さんは、父である社長の跡を継がなくていいと聞かされてきたそうですね。

山根氏

サンワカンパニーは1979年に父親が創業し、ずっと社長でしたが、小さいころから継がなくていいと言われて育ってきました。就職も父の事業である建築や住宅設備機器とは全く関係ない商社のアパレル部門に就職しました。

松 園

当時は将来何をやろうと考えていましたか。

山根氏

何をやるかは決まっていませんでしたが、ぼんやりといつか独立すると思っていました。昔から父には「男たるもの一生に一度は一国一城の主となれ」「お前は人の言うことをきかないし、サラリーマンは向いていない。好きなことを仕事にしたらいいんじゃないか」と言われて育ちましたし、小さいころから父が仕事でしんどいと言うのを聞いたことがなかったので、自分も起業するのは楽しいのだろうという気持ちもありました。
父には美学があり「起業するときにはお金がかかるが『一杯のかけそば』のようにお金で苦労するのは好きじゃない。後で聞けば美談かもしれないが、家族に迷惑をかけるような独立はするな」と言われていました。
ですので社会人一年目からどうするべきかを考えましたね。そこで大手で働いていたため多額の住宅ローンを組むことができたため、毎年マンションを1部屋購入し、それを賃貸に回すことにしました。自分で確定申告していると「キャッシュフローと税務上の所得ってこんなに違うんだ」と勉強もできました。
父が病気で他界して跡を継ぐことになりましたが、会社を辞める2014年には4室部屋保有していたのでその家賃収入だけで十分生活できるようになっていました。これが「辞める時に苦労しない」ということなんだなと実感しましたね。

松 園

会社を継ぐことに迷いはありませんでしたか?

山根氏

病床の父から「やはりお前しかおらん」と言われた時は、迷いました。仕事も別業界でアパレル部門だったため、「業界経験もないけどいいのか」と聞きましたが、「イノベーションをもたらすには、一般的なビジネスのスキルがあれば業界の慣習に染まってない方がいい」、しかも「好きにしていい」と言われたんですね。明日から社長をやれるチャンスは誰にでもあるものじゃないと思い、継ぐことを決心しました。

社長を継いで最初の決断は、2億の特損の計上

JAC Recruitment
顧問(元代表取締役社長) 松園 健

松 園

お父様から一種の帝王学のような教えを受けていたんですね。しかし状況がわからない会社の跡を継ぐのは大変だったのでは?

山根氏

東証マザーズ上場が2013年、私が社長になったのは2014年。1年目が本当に厳しかったですし、自分に自信もありませんでした。さらに苦しかったのは、父と私の間の経営陣の業績が上がっていない海外事業の累積損失が、約2年間で約2億円溜まっていて、さらに改善の見込みがなかったことです。その状況を受けて私が会社に入って最初の意思決定が、2億円の特損を計上することでした。当時1800円ほどの株価が一気に500円台になりました。
株価は、資金を直接調達しないかぎり実質的なキャッシュフローには影響しないけれど、株価が低いと外からは「潰れるんじゃないか」と言われたのです。株価では潰れない自信はあったのでキャッシュフローに重点をおいてなんとか乗り切りました。

ただ問題は社員でした。外からも調子が悪いと言われ、モチベーションが下がっていたんです。会社が悪くなった原因は必ずしも当時の社長だけではなく、社長を支えられなかった現場にも責任があったと思います。ですので上場直後に社長解任という状況に陥った原因になったメンバーには去ってもらうしかないと考えました。
そこで就任後最初の全社員集会で「甲子園に行く気のない人は降りてくれ」と言いました。その発言で一気に4割くらい退職し、特に管理系の社員がほとんどいなくなり、管理部門を見なければならなくなりました。かつ社長としてトップセールスをしなくてはいけない状態でしたから、ストレスも溜まってしまい入社したとき68キロだった体重が一気に85キロまで増えてしまいました。
ですが社長業は悲しい商売で、そのときでも「調子どう?」と聞かれたら、社長が対外的に調子悪いとは言えないので、きついと思いながらも「絶好調ですね!」と言わなければなりません。ただそんなときでも、仕事自体は楽しんでいましたから、やっぱり社長業に向いているなと思いますね(笑)。

松 園

我々ジェイ エイ シー リクルートメントもいろいろ経営者の方とお付き合いをさせていただいていますが、みなさん「しんどい時こそ笑え」とおっしゃる。経営者がしんどい顔をしていちゃだめだと。

山根氏

今思うと人事面では、跡継ぎで良かったと思っています。起業家は、どうしても創業当時からいるメンバーに対して、苦労を共にしている分、評価が高くなりがちです。ですが、後から入って来た人にとっては不平等以外の何物でもありません。僕は跡継ぎだったので、そこにズバッと切り込むことができました。
あとは「昔はよかった」と言う層を圧倒的マイノリティにして、新卒社員を入れて新しい文化を作りはじめていて、結果的には良い会社になってきていると思っています。私たちは未来の話をしたいんです。過去の話に拘る人は、そのステージに合う会社が他にもある訳ですから、転職していくという選択肢があります。それが本人や経営者双方にとってもいいことだったと思います。これは世の跡継ぎの皆さんにお伝えしたいことですね。
なので私も次の代に変わるときは経営者が変わることを厭わないです。山根社長の方がよかったというような人は、引き継ぐ時に一緒に辞めていった方がいいと思います。まだ先のことですが(笑)。

松 園

それは跡継ぎだからというより、山根さんの決断力があったからできたことですね。跡継ぎ社長の中には、創業時からのメンバーと新しい層の板挟みになっている方は結構いて、彼らが去って行く怖さも感じているので、決断できないのだと思います。

経営が軌道に乗るきっかけは、発想の転換

松 園

自分で0から作るより、ある意味難しい逆境から転換したターニングポイントは?

山根氏

2016年10月、パートナーとなっている現副社長が入社したことですね。彼は海外駐在時代のテニス仲間で、何回か入社を断られた末に入ってもらいました。わたしのキャリアはずっと営業で、性格的にも細かいことをみるのは向いていないと思っています。そこを補完してくれる人が必要だったので「自分が双眼鏡で先をみていくから、顕微鏡で足元をしっかりみて、支えてくれないか」と頼み込みました。そこで自分より優秀な人を迎えてはじめて、社長が一番優秀じゃなくていいと気づいたんです。
そこから「これからは猛獣使いになろう」と決め、自分より優秀な人に来てもらえる会社にしようと思うことができたのが一番のポイントだったと思います。彼は、米国公認会計士の資格を持っていて、会計の知識に長けているだけでなく年下でオーナー社長という私のサポートに奔走してくれていますから。また、私が本を出したように、彼も『オーナー社長の操縦方法』という管理系の本を出せるんじゃないかと思っています。他の企業にもワンマンのオーナー社長に困っている管理部長は山ほどいると思うので、ニーズはあると考えています。「僕のボスは9つ下のアホボンでした…」という感じで(笑)。実際、私は商談中に「話が違う!」とか言って会議の場を出ていってしまったこともあったのですが、そんなときも冷静にその後の対処してくれていました。

松 園

昔から社長とナンバー2がペアで経営すると上手くいくと言われていますね。過去を見ても本田宗一郎さんと藤沢さんとか、森田昭夫さんと井深さんとか…山根さんもよきパートナーを味方につけることで社長の方針や戦略を実現しやすくなった訳ですね。

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