経営はオーケストラが
奏でるハーモニー

楽天株式会社 副社長執行役員 CIO & CISO
フィンテックグループカンパニー CTO
平井 康文 氏

平井氏は、九州大学理学部数学科卒業後、1983年に日本IBMに入社。米国IBMヴァイスプレジデントを経て、マイクロソフトの執行役専務、シスコシステムズ代表執行役員社長など要職を歴任。2016年2月楽天に入社。現在は副社長執行役員としてCIO 、CISO、そして フィンテックグループカンパニー CTOを兼任。時代を象徴する外資系IT企業でキャリアを積み上げてきた平井氏が今、楽天に入った理由とは?JAC Recruitment 顧問(元代表取締役社長)の松園健がインタビューしました。

「坊っちゃん」に憧れ教師になるはずが・・・

楽天株式会社
副社長執行役員 CIO&CISO
フィンテックグループカンパニー CTO
平井 康文 氏

松 園

外資系企業で要職を歴任し、日本のみならず世界で活躍されてきた平井さんですが、学生時代はどう過ごされていましたか?

平井氏

四国の田舎で育ちました。夏目漱石の『坊っちゃん』に登場する松山中学を前身とする愛媛県立松山東高校出身です。学生当時にこの『坊っちゃん』を読んで感銘を受けて、数学の教員になろうと数学科を目指しました。小説の中で坊っちゃんは今の東京理科大学出身だったので受験したのですがご縁がなく、九州大学の理学部数学科へ。そこで音楽と出会い、勉強もそこそこにオーケストラ活動ばかりしていました。

松 園

伸び伸びした学生時代を経て、社会人は日本IBM(以下、IBM)からスタートされたそうですが、どんな就職活動でしたか。

平井氏

それも音楽と関わっていまして、高校の数学の教師になりたかったので教員免許を取りましたが、大学4年の夏休み、ちょうど教員採用試験の頃に、親に内緒でオーケストラの演奏旅行でイタリアに行きました。演奏旅行というのは巡り合わせで、桐朋学園などの音大生と一緒に行くチャンスを逃せなかったのです。帰国したら親がカンカンに怒っていて、仕送りも止められてしまいました。そこで当時IBMにいた先輩に相談したら、適性検査と英語の試験と面接があり「平井でも通るかもしれないぞ」といわれ、文系に混じって会社訪問に行き、IBMに拾ってもらいました。

ローカルで成功した営業は東京でも成功する

JAC Recruitment
顧問(元代表取締役社長) 松園 健

松 園

IBM入社直後は関西、四国などで、いわゆる泥臭い営業活動をされていたとか。

平井氏

ローカルが長かったですね。四国出身だったので、入社後から四国営業所に配属になり徳島に駐在しました。東京などの大きな営業所では、最初は先輩に色々と教えてもらえますが、なにしろ人がいないので全部自分でやるしかない。当時、徳島に大塚製薬さんがあったので、社長に堂々とアポを取って1人で行くというような武者修行をさせてもらいました。自分にとってのビジネスのテリトリーがあったので、一生懸命取り組むことができました。

松 園

自分が主体的にやるしかない環境が逆によかったということですね。主体的に考えて、チャレンジしながら失敗を恐れずに行動したことが、今の土台になっているのでしょうか。

平井氏

はい。今思うとよく仕事しましたね。当時は結婚したばかりで、夜8時頃になると、会社から10分程の自宅に一度戻って食事し、そこからまた会社に行き、朝まで提案書を作るという無茶なこともしていました。自分の裁量で仕事を自由にやらせてもらい、仕事力を養えるのも、ローカルの強みかもしれません。そういった意味で、ローカルで成功した人は東京に行っても成功するんじゃないかな。
その後、東京に転勤して驚いたのが、何かサポートしてもらいたい時に、同じビルにそれを教えてくれる社員がいるわけですね。当時はインターネットもなく、携帯もスマホもないので、四国にいた頃は必死に電話をして「お願いします、これ教えてください」という感じでした(笑)。

グローバルでの活躍の基礎、顧客第一主義は四国で培われた。

松 園

今でこそ平井さんというとグローバルリーダーとして名前が挙がるお1人ですが、日本のローカルで色々チャレンジしていた経験は、その後のグローバルの仕事に役立っていますか?

平井氏

今の私の“お客様第一主義”、顧客本位の考え方は、ローカルで養われたと思います。週末に徳島の商店街を歩くとお客様にばったり、という狭い世界ですから。お客様が必要とするものを主語に、どんな事業戦略、営業戦略、ご提案をするべきかを現場で叩き込まれました。正直、四国にいた頃は、自分がグローバルで仕事をするなど、まったく考えていませんでした。

松 園

そのあたりが興味深いですね。ご自身のターニングポイントは、どこだと思われますか。

平井氏

やはりIBMでのニューヨーク赴任ですね。四国、関西に約10年いたあと、本社経営企画部門に配属になり、単身赴任で東京に行きました。1人の生活は大変で、「やはり家族と住みたいので関西に戻してください」と言ったら、当時の上司が「そうだな、家族といた方がいい。家族でニューヨークはどうだ」と、いきなりニューヨークへ2年間(笑)。そこで初めてグローバルを経験しました。ニューヨークに行ったのは35~36歳の頃。その後、日本に戻って41~42歳でもう一度ニューヨークに行きました。

松 園

すごい展開ですね(笑)。英語の壁はどうクリアしましたか。

平井氏

英語はもともと好きで、中学の時に1ヶ月ホームステイに行ったこともありました。しかし語彙力も少なく、話す機会もほとんどなかったので、レッスンに通って勉強をしたり、TOEICを何度も受けたりと努力しました。ただ英語に関しては「習うより慣れろ」だと思います。重要なのは下手でもいいから伝えようとする意志と我慢強さ、そしてアイコンタクト。
今、楽天には外国籍の従業員が約2割、私の担当している技術部門では5割以上います。中には日本語を話す人もいますが、彼らの日本語を聞いた時、「てにをは」を間違えても全体の文脈は解るし、「日本語下手だな」とは思わない。なぜなら一つ一つの単語ではなく、文脈で会話は成立するから。日本人は細かいことを気にして話せなくなる人が多いですが、それを一回放り出して慣れていかないと、コミュニケーションは成立しないと思います。

松 園

2回アメリカに行かれたということですが、30代と40代では違いましたか。

平井氏

1回目は勉強ということでアシスタントというポジション。2回目は、あるソフトウエア事業のグローバルの責任者として行かせてもらったので、なかなか大変でした。僕は根が営業で、現地現物主義。とにかく夜討ち朝駆けお客様のところに行き、あらゆる質問をして自分で正解を見つけるというタイプでした。しかしその頃は電話会議が多く、顔を見たこともない人と会議して、ビジネスの話を聞いても、その人に還元してあげられることが非常に限られていて、別の意味できつかったですね。

松 園

なるほど。40代では仕事の仕方の違いが課題になったということですね。

ファーストラインマネージャー経験から学べ。

松 園

ところでエグゼクティブを目指す人にとって、20代後半から30代前半は色々な意味で重要だと思いますが、ご自身のご経験の中で大切だったのは何だと思いますか。

平井氏

思い起こすと私が初めて営業課長になったのは入社6年目の28歳。右も左もわからなかったのですが、チームを率いるという意味では一番いい経験になりました。スタッフから管理職になり、人を管理する経験はすごく重要だと思います。特にファーストラインマネージャーは部下から色々な相談を受け、何らかの意思決定をする。同時に現場に接しているので、実行する責任もある。そういう意味で意思決定と実行が交わるポイントなので、ここが一番重要。
イノベーションとはトップダウンで起きるものではなく、またボトムアップでもなく、ミドルアップダウンで起きると思います。ミドルマネジメントが大事。経営層になると意思決定はするけれど、実行に直接関われなくなるもどかしさはありますね。

松 園

自分で意思決定したことを実行して、フィードバックできる貴重なポジションということですね。

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