肩書きを見ずに人を見て、
本音で語れ

日本アイ・ビー・エム株式会社 取締役専務執行役員
グローバル・ビジネス・サービス事業本部長
山口 明夫 氏

1911年にニューヨークに誕生したIBM。日本で1937年に創業した日本IBMも2017年6月に創立80周年を迎えた。統計機器から始まり、1950年代のコンピュータ黎明期からAI時代の現在まで、トップランナーであり続けている。直近ではコグニティブ・コンピューティングであるIBM Watsonに代表される新技術を生み出し、新しいシステムを構築。開発はもちろんAIやクラウド、グローバルのノウハウを活かしたビジネスコンサルティングなどのサービスも展開している。同社の取締役専務執行役員 グローバル・ビジネス・サービス事業本部長である山口明夫氏にJAC Recruitment代表取締役社長の松園健がインタビュー。グローバル企業IBMで、経営のプロはいかにして生まれたのか。意外な一面を見せてくれた。

農家の長男、人気No.1外資企業へ

日本アイ・ビー・エム株式会社
取締役専務執行役員
グローバル・ビジネス・サービス事業本部長
山口 明夫 氏

松 園

山口さんは、日本IBMの取締役専務執行役員という、経営に携わる立場でいらっしゃいます。今日は山口さんがどのように「経営者」への道を歩んでいかれたのかをお聞かせください。

山口氏

私は和歌山の桃とみかんを生産する農家の5代目で、家業を継ぐことを期待されていました。和歌山に戻ることを考えていましたが、たまたま大学の先生に紹介されたのが、当時就職ランキングナンバーワンだった日本IBMです。先生から「チャンスなんだから、ハッキリ決めなさい」と言われ、IBMに入社。面接では「週末に和歌山に帰るので、大阪勤務を希望」「英語は苦手です」など、今では考えられませんが、1987年の売り手市場だからこそ言えました。

試練の連続のサラリーマン生活をどう乗り切る?

JAC Recruitment
代表取締役社長 松園 健

松 園

英語が得意でもなかったのですか?それまでとは真逆の環境に身を投じたのですね。

山口氏

入社した最初の研修から資料が英語で、大阪事業所のカスタマーセンターに配属後は、2年で東京の同部署に転勤と想定とは異なる展開でした。その頃、大手銀行の新しいオンラインシステムが稼働した直後で、担当の先輩エンジニアだけでは人手が足りず、「誰か元気のいい若手を」という依頼があり私がアサインされました。お客様先でのエンジニア経験はないし、多忙を極める先輩の元での業務は本当に大変でした。しかもお客様には、すごい技術を持った優秀な方がたくさんいて、経験豊富なIBMのエンジニアや営業もいる中で、入社3年目の私が戦場のような現場で全く役に立たないのが現実でした。

松 園

入社3年目で、大手銀行に出向いてエンジニアとは大変ですね。どう乗り切ったのですか?

山口氏

背伸びしても仕方がないので、1つずつお客様に聞いて学びました。徐々に専門用語を覚えて仕事が面白くなるにつれ、お客様からも少しずつではありますが「一生懸命やってくれているね」という評価をもらえるようになりました。

10年以上その部署で業務に従事した後、銀行のプロジェクトで一緒だった営業本部長に引っ張ってもらい、経営企画部に移ることになりました。銀行の方々が開いてくださった送別会で、「最初の半年ぐらいは、IBMに山口さんを引き取ってくださいと正式に申し入れていたのですが、『彼は絶対逃げずにやるから置いてくれ』と頼まれていた」と話してくれました。そんな私も、10年経つと「いなくなったら困る」と言ってくださるお客様の存在があり「育てていただいた」と実感しました。

松 園

一生懸命に取り組めば、見てくれている人はいるのですね。

真逆の環境でも、とりあえずやってみる

松 園

しかし、また転機が訪れて全然違う部門に行くわけですね。

山口氏

また1からですよ(笑)。エンジニアとしてプログラミング、障害報告書やシステム構成図も書けますが、社長が講演で使う経営のプレゼンテーション資料など書いたこともなかったのに、いきなり経営変革をテーマにした資料を作成することになり、周りに聞きながら取り組みました。
現場に早く戻りたかったのですが1年半後、CFOの補佐をすることになり、37、8歳でしたが、朝から晩までひたすら働きました。マーケティングも少し担当させていただき、その後、やっとシステム構築をする部署の部長として現場に帰ることができました。

松 園

これまでのお話で興味深いのは、元々いらっしゃった環境とは真逆の環境でのチャレンジの連続ですね。実家の農業から最先端のIT系企業へ、英語は苦手だが外資系企業へ、エンジニアなのに銀行へと周りの人たちから背中を押されて、どんどん新しい世界を自分のものにしていく感じ。ご自身ではどうしてだと思われますか?

山口氏

そうですね。岐路に立った時に声をかけてくれたり、一緒にやろうと言ってくれたり、仲間や周りの人には大変恵まれていたからだと思います。できる、できないというより、「とりあえずやってみなさい」と言われることが多かったのですが、その時々で助けてくれる人がいたからこそ、乗り越えられたのだと思います。

松 園

山口さんのお人柄もあるし、一生懸命な姿勢が周りの人に伝わるのでしょうね。お話からも滲み出ています。ところで元々マネジメントをしたい、経営者になりたい、というお気持ちはあったのでしょうか。

山口氏

経営志向は全くなく、マネージャーもやりたくなかった(笑)。プログラミングや新製品開発のエンジニアでずっといたかったくらいです。「マネージャーも経験してみないか」とのオファーもずっと断っていましたが、「1回ぐらいやってみてもいいかな」と引き受けたところ、非常に面白かった。若手社員40~50人を部下に持ち、コミュニケーションをとりながら皆と色々なことを考えるのが楽しく、「マネージャーも、いいな」という感じでしたね。
そして間もなく、ソフトウェア事業部の新しいポジションがあり、引っ張っていただき異動しましたが、ここもまた未知の世界でした。今まで経験したことがない仕事、会ったことのない人たちとの仕事で、アメリカ本社とも密接につながっている組織だったのです。

言葉の壁があってもコミュニケーションを取る方法

松 園

また声が掛かって新天地に。そしてついに苦手な英語を使う機会が訪れた、と。

山口氏

そうなんです。アメリカの上司の無理難題や要求に応えられない日本の事情をロジカルに英語で説明できず、実は難しい関係でした。そこで日本の上司から英語力向上も兼ねて「アメリカに行ってこい」と言われて転勤。しかも勤務先はなんと、その上司の所でした。成田から飛行機に乗る時、あんなに気が重かったことはないですね(笑)。

松 園

お話を聞いていると、相当熾烈な環境で常にチャレンジしていますが、どのように乗り越えられたのでしょうか。

山口氏

上司が苦手だからといって、逃げるわけにはいきません。そこであらかじめA4用紙3枚に私が今までやってきたことや、なぜそのような意見を言ったかを書き、上司に会ってすぐに渡すと、「なるほど」と納得してもらえ、その後、一緒に仕事をしていく中で徐々に和解することができました。その上司は現在ハーバード・ビジネス・スクールの教員になっていますが、付き合いは続いていて、ニューヨーク出張の際は家族で一緒にご飯を食べたりしています。
上司ともいい関係を築けて、アメリカには3年駐在の予定で翌年の仕事も決まっていたのですが、お世話になった人からの依頼で急遽1年で日本に帰任。それが12年前、今の事業部です。

松 園

現実から逃げずに、解決策を探すということですね。アメリカに残るという選択肢もあった中で、あえて厳しいところに戻った。まずは現実を受け止めて、人との信頼関係を大事にする山口さんらしい選択ですね。

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