エンジニア、プロフェッショナルが
もっと評価される日本に

富士通株式会社 シニアフェロー
宮田 一雄 氏

1977年 富士通にシステムエンジニアとして入社。そして26歳からプロジェクトマネージャーとして数々の大規模プロジェクトを手がけた宮田氏。執行役員となりグループ会社の社長を歴任。2017年には著書『進む!助け合える!WA(和)のプロジェクトマネジメント: プロマネとメンバーのためのCCPM理論』を出版。エンジニア経験と理論に裏打ちされたイノベーティブな手法が注目されている。

オイルショックで国産コンピューターをつくる会社に就職

富士通株式会社
シニアフェロー

宮田 一雄 氏

松 園

宮田さんは、新卒で富士通に入社されて以来、素晴らしい経験と実績をお持ちですが、まずキャリアのスタートからお伺いしたいと思います。

宮田氏

挑戦の連続でした。大学は大阪大学機械工学科だったため、通常は研究室に来た推薦で企業に就職できる時代でしたが、1977年は第二次オイルショック後で、自動車メーカーや製鉄など、機械工学科出身が行くような会社の学部卒採用がゼロでした。そこで教授から紹介されたのがIBMさんと富士通。当時の私は「IBMは知っていたけど富士通は知らなかった」という理由で、IBMと言おうと思ったところ、「おまえ日本人だろ」の教授の一言(笑)、それで富士通に入りました。
学生時代は部活に夢中で企業研究もおろそかなまま選択し、改めて調べたら「コンピューター」の会社でした。プリンターの設計なら機械工学専攻だしなんとかなるかと思って入ったら「SEになってくれ」と。当時の自分も、また他の誰に聞いても知らない職種でした(笑)。その頃、「コンピューター」の価値は高まっていましたが、お客様にとって富士通はまだまだ新参者、国産コンピューターを拡販するためには「SEもつけときますから」というスタンスで、僕はコンピューターのおまけみたいな感じでした(笑)。そこから社会人人生が始まりました。プロジェクトで関わった全てのお客様に育てていただき、首都圏だけでなく多くの地域拠点を歴任し、途中営業職にも挑戦し、若くして社会的な大規模システムのプロジェクトマネジメントを任せてもらえるようになりました。

26歳でプロジェクトマネージャーに

松 園

SEからスタートして、色々な大型プロジェクトにアサインされたきっかけは何でしたか?

宮田氏

当時はSE自体が新しい職種だったため、若いうちからプロマネを任される状況でした。私自身、26歳でプロジェクトマネージャーになったんです。上司も普段は他のプロジェクトについているため、自分が富士通の「顔」としてお客様先に赴き、部下1人をつけてもらい、50人ほどのスタッフをまとめながら、パートナーであるお客様と共にプロジェクトをスタートしました。その時、自分と一年違いの後輩とのプログラミング能力の差に愕然としたことを覚えています。自分もエンジニアとしてプログラミングはできるつもりでしたが、彼の能力を見たときに圧倒的に違うと気づいたんです。自分なら1週間かかるものが翌朝にはできていたんです。これは頭の構造が違うと。それがプロマネを目指すきっかけでした。お客様の高い要望に対して多くの関係者を束ねて結果を出すプロジェクトマネジメントで頑張っていこうと決意しました。

松 園

26歳で50名以上の人のマネジメント、納期の管理、コストの管理など大変なご苦労があったと思いますが。

宮田氏

そうですね。気軽に話せないほどのたくさんの失敗をしていますよ。若い頃には自分の作業ミスで、今でいう銀行のオンラインシステムを止めたこともあります。社会問題ですよね、こういう時は富士通という会社は素晴らしくて、普段は一緒にいない上司がきっちりカバーしてくれるんです。転機は30歳の頃かな。富士通がSEを増やそうと各地でSE会社を立ち上げていた時、大阪にある証券系の大規模プロジェクトが立ち上がるから一緒にやろう、と誘いを受けて、自ら「これをやりたい」と我を通したのはこの時一回だけでした。このシステムは設計から品質確保まで相当大変なプロジェクトでしたが、何とか稼働させたことが上司の目に止まって、東京への異動となりました。そして証券システムの課長だった頃に、キャリア系のビッグプロジェクトで問題が起こったため応援に出向いたら「キャリアのシステムなのに、証券しか知らない奴に何ができる」という扱いをされました。言われるのも当然、専門外ですからね。でも上司にはなんとかしてこい、とのミッションを受けているし、1年間お客様先に張りつき、業務を理解し、一つ一つ問題をクリアしていき、まさに体を張って信頼関係を構築していきました。30代はほとんど会社に戻らずにプロジェクトを渡り歩いていましたね。40歳ぐらいから、社内のマネジメントに軸足を移して事業部長として全体を統括するポジションになっていきました。

松 園

逆境の乗り越え方で道は分かれてきますね。 また、グローバル企業であれば英語力は必要かと思いますが、どう身につけましたか。

宮田氏

会社でグローバル人材を育成するための研修を受ける機会がありました。参加者には外国籍の社員もいますし、英語でプレゼンするのは大変でしたが、研修の内容自体はそんなに難しくはなかったので、コミュニケーションツールとしての英語を「根性と伝える思い」とで何とかクリアしたという感じです。確かに他言語のプロマネと会話する時は、少しでも喋れると違いますよね。

私が社長なら、若いうちに全員地方からキャリアを積ませる

JAC Recruitment
代表取締役社長 松園 健

松 園

この「経営者への道」では色々な経営層の方にお話をお伺いしていますが、地方からスタートしている方は多いですね。

宮田氏

地方の経験は大事だと思います。東京に異動して驚いたのが、プロジェクトの規模が大きいほど、各自が担当している仕事の一部しか知らないこと。例えば、営業との役割が明確なため、SEがお客様とお金の交渉をしたことがない、直接クレームを受けたこともない、とか。地方にいると、プロジェクトの規模や要員の少なさから、一人のSEにかかる裁量がとても大きく、何でもやらなきゃいけない。怒られることも、褒められることも。若手を育成するなら、まずは全員地方に配置したいですね。やっぱり若い頃にお客様に直接怒られた経験がないと、年を取ってから辛いと思います。富士通の副社長である谷口も同期ですけど、お互い違う部門に配属されて、事業部長になった頃から会うようになり、「お互い色々なところを駆けずり回っていたから会う機会もなかったな(笑)」と話しています。

松 園

地方での経験が自分を鍛えることになり、結果的に良かったと。私どもが見てもエグゼクティブになるといきなり大きなプロジェクトを求められる事が多いですが、やはり鍛えていないと筋肉がついて行かないようですよね。

宮田氏

ソフトウエアのシステム開発は「コミュニケーションありき」の仕事なので、多様な経験が活きてきます。船やロケットを作るエンジニアリングのプロジェクトより、もっと人間くさいマネジメントが要求されますから。

松 園

その後大規模プロジェクト、グループ会社のトップというところへ進まれるわけですが、その道のりは険しかったでしょうか。

宮田氏

私は若いうちにプロマネを経験しましたが、自分の力を発揮できないと思う時期もありました。そんな時、営業を3年担当させてもらったことが次の転機になりました。当時の私は、「ものづくり」は全て私たちSEがやっているので、プロジェクトを動かしているのはSEだ、と思い込んでいました。ところが、全国の地銀営業を経験して、営業が如何にプロジェクトで重要な役割を担っていたかを気付かされました。ダメなSEに当たるとお詫びとトラブル対応で営業は大変。他にもハードが壊れたとか、お客様の要望とクレームを全部受け止めなければいけない。その守られた中で、私たちSEはシステム開発に専任できていたのだと見方が180度変わりました。営業が前面に出て、そのバックに事業部門があるという製造業の構造がやっと理解できました。その後SE会社の社長になった際、この体験がとても活きたと実感しています。

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