社長になりたくなかった社長?
その軌跡とは

エア・ブラウン株式会社
代表取締役会長 安田 隆 氏

1889年、英国グラスゴーにエ・ア・ブラウン・マクファレン株式会社として設立された現在のエア・ブラウン。日本支社は1949年に開設。戦後の日本の復興を盛り立てて来た。そこに34歳で中途入社した安田氏。社長になってからは理念経営で会社を刷新して、年商100億円を実現。安田氏が、いかにして社長になっていったのか、どんな理念で会社の舵を取ったのかを探った。

エア・ブラウン株式会社
代表取締役会長 安田 隆(やすだ たかし)

1949年生まれ。東京都出身。慶応義塾大学大学院 民事法学科修了。父の会社である菓子工場にて生産管理やマネジメントの経験を経て、エア・ブラウンへ入社。貿易業務や、経理、人事など、さまざまな部門での業務を経験後、2006年に社長就任。2016年より現職。趣味は料理、家族や孫たちと過ごすこと、野球、ゴルフなど。座右の銘は「天命を信じて、人事を尽くす」

挫折から、受け入れる人生への転換

まず、経歴をお聞かせいただけますか。

ちょっと変わっていまして、私は大学院で法律関係の研究をしていました。工場をやっていた父の体調の関係で、代わりに会社を運営することになりました。実は研究者になるのは、子供の頃からの夢。大学院で研究していたとき、これが人生の目的だと思っていました。私はこのために生きている、研究者として生きていくんだと。それができなくなるとわかった瞬間は、正直挫折を感じました。でも逆になんでもできるかなと、これまでやってきた経験をもとに実現できることは絶対あるなと、妙な安心感もわいたことを覚えています。全てを受け入れた方がいいという直感もあった。その時に「受け入れる人生を生きていこう」と決めたんです。自分の生き方は、人への貢献、自分のいる立場から、その環境に役立つ人間になる、と決めきった。

工場では大手菓子メーカーのお菓子を作っていたので、特に営業する必要はなく、マネジメントや生産管理、数字を見る仕事などを8年やりました。規模の大きな会社ではなかったけれど、数字の怖さとか商売のことは学びましたね。その後、父親が工場を閉めようと言ったので、私も辞めたいと言って、34歳の時に会社を閉めました。利益も出ていたので、ある程度みんなに分配できました。34歳で初めての就職活動です(笑)。当時は就職サイトもなかったし、知り合いに数社紹介してもらいました。大きなリース会社の法務に来てくれと言われて、経験も生かせるし給料も高かったのでいいなと思っていた。その後、エア・ブラウンに行った時に、おとなしい法務の会社と違って活気があり、直感的にこの会社がいいと思って入社を決めました。給料も以前の7掛けぐらいだったので、女房には「給料が減っちゃうけど」と言ったら「しょうがないね」と(笑)。

入社10年で役員になる

前向きな気持ちの切り替えですね。34歳で初めてのサラリーマン、どうでしたか?

企業で仕事をすることに慣れていないので、現場に行くなど、色々と勉強をしました。入社後に任されたのが貿易関係の実務を・・・まあ全部ですね。実務からコンピューターまで。最初は、システムの勉強をしてくれといわれて、営業の取引内容や貿易のことをかなり勉強しました。貿易のことなんて全然知らなかったので、先輩社員から教わって、夜には本屋に行って本を読む・・・そのぐらいのスピード感でした。他にも勉強することだらけ。当時の社長が、コーポレート・アイデンティティー(CI)をやるからと言った時にも、何のことだろうとそれをガッと勉強したりね。法律の知識はあるものの、訴訟を起こしたこともない。数字は見ていたから、経理部門は見られたけど、全部会計士任せだったので、勉強にいきましたね。知らないことを勉強するのは面白かったな。

貿易業務は3ヵ月~半年ほどやり、そのあと経理、決算、財務の責任者となり、2、3年後にはリーダーに。現場をやりながらマネジメントを学んで、40歳前にはいわゆる間接部門である経理、人事、システム全体を見るような立場になった。その間、ニューヨークオフィスの立ち上げプロジェクトも実行するなど、色々な経験をしました。役員になったのは44歳の時。ちょうど私の上司であった役員が定年の時期でもあり、そのタイミングで役員になりました。

役員になった時には、どういうことを考えて仕事に取り組まれましたか?

勉強することで、自分のモチベーションを高めていました。半年間、大学の夜間の講座に通い、夜6時から9時ごろまで勉強しに行くなど、すごく面白かったですよ。なにせ研究生活から親父の会社に入り、いきなり組織人になったので、営業をやったこともないし。全然違う世界に飛び込んで、そこから違うことを学ぶのは面白かった。もともと研究者気質なので、本を読むこと、追究すること、体系としてまとめること、新たな発見をすることが好きだった。そのことが、社会人になっても何かを勉強するとか、形にするとか、一つひとつに生きたと思う。好奇心を持って一部じゃなく全体像が見えるまで勉強するタイプですね。大学院生の頃も、法律以外の本を読み漁っていました。社労士の先輩がいたので、彼を通じて仲間に入って勉強もした。知識をつけたら、あとは自分で解決する、自己流です。

すごいですね。そうやって体系的にまとめたものを、さらに実務に落とし込んでいくのですね。

面白いことを追求していたらリーダーに

元々、リーダーを目指していたわけではないのですか?

全然、全然!キャリアをどう築くかなんて考えず、面白いことをただやりたいだけだった。来た仕事は断らないということだけは決めていたので、来る仕事は100パーセント受けて、結果を出していくことの連続でした。役員になってほしいと言われた時に、実は、お断りしました。だけど、退任する先輩から「おまえしかいないから」と言われて、引き受けることになりました。

役員にと依頼があったのは、ご自身でどういうところが評価されたと思いますか。

当時の役員は営業出身者だけだったので、これからは数字がわかる人も必要だと言われましたね。責任が重いなということは分かった。経営者から見ると、トップ、営業、財務というトライアングルで役員を構成したいということだと思います。私にその一役である財務を担わせたいということだったのでしょう。当時は、自分が役員でなくてもいいと思っていましたが、経営者になった今は、よくわかります。数字がわかる参謀役は絶対に必要ですね。

社長になられたのは、2006年ですね。この時も依頼を受けたのですか?

そうですね、リーマンショックの前でした。前の社長は15歳ほど年上で、年齢的なこともありました。実は、その2年前から社長を打診されていたのですが、やはり嫌だと断っていました。一番の決め手となったのは、先輩役員三人が三人とも「安田しかいない」と言っていると口説かれたこと。「それじゃしょうがない、やります」と引き受けました。ただ、今思えば、私しかできないことだったなと思う。結果的に会社の考え方を大きく変えるきっかけなったので。営業のトップだった前の社長とはタイプがまったく異なり、やはり考え方が違った。それは今思えばよかったのかな。財務体質を抜本的に変革し、人事制度、海外進出まで、ガラッと方針を変え構造改革につなげることになった。

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