クラウド領域のシステム開発に強みを持つコムチュア株式会社。現在の代表取締役社長執行役員である澤田千尋氏は、日本IBMとNECを経て2019年からコムチュアの経営を担っています。
大企業を渡り歩いた澤田氏がコムチュアで経営を託されるまでの経緯や、右肩上がりで成長し続ける理由、経営者に必要な資質についてうかがいました。
高校までは長野県長野市で育ち、東京大学に進学して機械工学を学んだ後に大学院では情報工学を専攻しました。修士課程を修了した1986年に日本IBMへ入社します。当時はバブル経済の真っ只中で大量採用の時代。日本IBM全体で1万人弱の社員数のうち、2000人が新卒社員でした。
私は全世界に4カ所あったIBM基礎研究所の一つである、東京基礎研究所で社会人をスタートしました。しかし、研究員として研究所に籠もる働き方は向いていないと感じるようになり、1995年に開発製造部門の企画に異動します。
当時、日本の開発製造部門が担当していた主力製品はノートPC「Thinkpad」で、HDDや液晶パネルなどの部品も内部で製造していました。しかし、その当時のIBMは業績悪化が続き、外部から招聘されたルイス・ガースナー氏がCEOとしてグローバルで経営を立て直している時代でした。国毎に独立採算だった仕組みを本社主導で最適化し、日本IBMも2000人規模のリストラを実施。日本の開発製造部門も、高コストがネックとなり最終的には解散します。一方で私は次期幹部候補として、2001年から2年間米国本社に赴任しました。
その当時の日本IBMは幹部候補として選抜されると米国本社に赴任となり、幹部養成プログラムを受けながら2年間本社の文化を学ぶ仕組みがありました。私も日本から選抜された50人の1人として渡米し、全社の技術戦略を担う部門のコンサルタントとして働いていました。2年後の帰任に際し、私が所属していた開発製造部門は既に解散しかかっていたこともあり、2003年にLotusの営業部長に就任しました。
当時のLotusはIBMが買収したばかりの頃で、Lotusの日本法人はアットホームなベンチャーのようなカルチャーでした。一方の日本IBMは社員同士がしのぎを削る大企業であり、Lotusとは水と油のような関係で、IBMはLotus側の組織を上手くマネジメントできていませんでした。そこで米国から帰任したばかりの私がテコ入れを任されたのです。
元々、技術畑出身で営業経験はありませんでしたが、思いのほか結果が出せたこともあり、2004年からの5年間はLotus事業部長を担当しました。営業責任者としての業績は右肩上がりで非常に好調でしたが、米国本社にいた時の仕事を思い出し、将来のキャリアパスに限界を感じるようになりました。
もっと経営に近い立場の仕事をしたいと思っていたころに、声がかかったのがNECでした。日本に本社を構える企業であれば、経営のポジションに就けると思い転職を決意します。NECでは中央研究所の支配人として1年間担当した後、NEC本社に異動し新規事業開発部門の責任者に就任しました。
NECはIT、通信、社会インフラという3つの主力事業があり、各部門が持つ要素技術を活かした新規事業を立ち上げることが私のミッションでした。創薬にAIを活用して市場投入までの開発期間を短縮させる取り組みや、人工衛星画像を使って農作物の生産量を改善する目的で、カザフスタンに山手線エリア3つ分の農場を使った実証実験を行ったりと、様々な事業の立ち上げを行いました。一方で、コーポレートベンチャーキャピタルやコーポレートマーケティング機能の立ち上げにも関わり、非常に貴重な経験を積むことができました。
しかし、NECは50以上の独立した事業部からなる企業で、組織も縦割りかつ階層が深いため、新しい取り組みがなかなか現場まで浸透しないことに課題を感じていました。ちょうど、その頃に「うちに来ないか」と熱心に誘ってきたのが、コムチュア創業者の向(故・向浩一氏)でした。
私が日本IBMのLotus事業部長のころに、Lotusを取引先企業に導入するパートナー企業の一社だったのがコムチュアでした。1980年代から90年代にかけて、企業でのコンピューターの導入が急加速し、1人1台PCが当たり前になりつつあった時流を受けて、日本国内も数万社のITシステム開発会社が誕生しました。
その中でもコムチュアは破竹の勢いで成長してきた企業です。何度かの淘汰を経て、数千社のうち数社のみが生き残るような熾烈な状況でもコムチュアは成長しつづけていました。その源泉はコムチュアの創業者である向の強いリーダーシップにあったのは、外部から見てもわかりました。
1946年生まれの向は、当時70歳近い年齢だったこともあり、次期後継者を探していました。そこに旧知の仲だった私に白羽の矢を立てたのでしょう。というのも、向とはIBM時代から、ビジネスだけでなく、公私ともにお互いをよく知る関係でした。その当時から彼は豪快な昭和の経営者らしい一面がある一方で、きめ細やかなマネジメントをベースに、計画から実行までを短いサイクルで繰り返す経営手腕の持ち主でもありました。
その経営手法はIT業界における普遍的かつ王道のモデルであり、激しい競争を勝ち抜いてきた源泉はそのマネジメントシステムにあったのです。私自身も、IT業界の黎明期から成長し続けてきたコムチュアの経営に挑戦したいという思いが高まり、2014年4月にコムチュアに常務執行役員として入社しました。
コムチュアでは事業部門の責任者として入社し、1年目から毎年15〜20%ペースで売上を伸ばすことができました。これは私自身の能力というよりも、全社にまたがる「目利き」があったからです。コムチュアは廃れていくものは躊躇無く捨て、これから流行るものにいち早く取り組むカルチャーがありました。それは現場からのボトムアップによる提案だけでなく、経営層の人的ネットワークを介した情報網も功を奏していました。
当時は会長職に就いていた創業者の向と、大野(前・代表取締役社長
大野健氏)、そして私――それぞれが異なるバックグラウンドを生かした人的ネットワークを持っていました。向は起業家同士の人脈があり、野村総合研究所出身の大野は日系の大手SIerとの人脈、そして私にはIBM時代に培った外資系ベンダーや、IBM出身の経営者の人脈がありました。相互に補完し合う人的ネットワークを通じて情報収集しながら、現場からの提案もミックスして経営判断に取り入れていく――これこそが成長の要因でした。
その後、大野が70歳を迎えたことを機に社長を退き、2019年に私が後を継ぎます。就任当初、「創業からの理念は普遍的なものであり、不易流行だ」というメッセージを全社員に送りました。つまり、これまで培ってきたコムチュアの理念は大切にしながらも、さらに新しいことを進めていきましょうという事です。創業からの理念と新しいものを取り入れていく風土を両立させながら、更なる成長に向けて歩みを進めようと決意しました。
社長就任から3年後の2022年に創業者の向が75歳で亡くなったことが、経営者としては一大転機になりました。振り返ると、その当時の向は自分の持っているものを全て私に伝えたいという思いで私に接していたように思いますし、私も全て吸収しようと取り組んでいました。
決算発表を控えた数週間前に向は私を呼び、「自分はこれから入院するが、そのまま退院できないかもしれない」と告げました。その時は、まさに寝耳に水で、ただただ驚くばかりでした。それまで毎日出社し、そのような健康状態には見えなかったからです。
その後も決算と同時に発表する中期経営計画の内容を詰めるべく、毎日のように向とやりとりをしながら準備を進め、発表当日を迎えました。向が亡くなったのは、その発表の数日後でした。
これまで二人三脚で歩んできた創業者が亡くなり、経営に携わっているのは自分しかいない――この事に気づいた時、心の底から孤独を感じました。それと同時に、ここから本当の意味での「経営者の道」が始まったのだと思い知らされたのです。
当初は「こういう状況だったら、向はどうしていただろうか」と常に考えていましたが、半年が過ぎた頃に「これから先は自分のやり方で進もう」と割り切れるようになりました。「向だったらどうしていただろうか」と考えるのは止め、これまで通りコムチュアを成長させることで、社員と家族が幸せになる経営を続けようと気持ちを切り替えたのです。現在は創業者の理念は引き継ぎつつも、次のステージへ向かっていくという、不易流行の精神で経営に取り組んでいる最中です。
ITシステム開発会社の事業は社員数と業績が比例するビジネスモデルです。今後、売上高1000億円規模の企業に成長していくためにはM&Aや新規事業など、さまざまな側面から規模の拡大を積み重ねていくことが必要だと考えています。
事業を拡大させていくためには会社と社員双方の成長が欠かせません。システムは人間が開発するものですから、常に社員が夢を持って仕事に取り組むことができ、社員の家族からも良い会社で働いていると思ってもらえることが理想です。
これから経営者としての道を歩む方にアドバイスをするとすれば、論理的な思考を持つということと、様々な情報チャネルを持つことをおすすめします。論理的に考えられる素養は何事においても重要であり、また情報が多ければ多いほど正しい判断に繋がります。そして、ベストな判断はできなくてもいいので、間違った判断をしないことが大事だと伝えたいですね。10個ある選択肢のうち、3つが間違っているとするならば、残り7つの間違っていないものを選べばいいのです。それはベストな選択ではなくても問題ありません。正しい選択を積み上げて少しでも前進し続ければ、結果的には爆発的な成功とはいかなくても、着実に成長曲線を描くことができます。そのためにも、人とのコミュニケーションから生きた情報に触れると同時に、論理的な思考を通じて、間違った判断をしない能力を磨き続けることが重要だと思います。