アルバイトから執行役員への軌跡

BIPROGY株式会社(旧日本ユニシス株式会社)
取締役専務執行役員 CSO 葛谷 幸司氏

BIPROGY株式会社(旧日本ユニシス株式会社)の前身は1955年にまでさかのぼる。日本初の商用コンピュータ「UNIVAC-120」を東京証券取引所と野村證券に設置し、日本のコンピュータ・ITの新時代を切り拓き続けている。葛谷氏はまだITという言葉も無かった1985年に当時の日本ユニシスへ入社。現場のプログラマーから、努力、人との出会い、そして機会を逃さず身につけたオールラウンドな知見を糧に2017年4月には取締役常務執行役員CDOに就任、現在は取締役専務執行役員 CSOを務める。采配を振っていらっしゃる葛谷氏にJAC Recruitment執行役員の早川徳二がインタビューしました。

プログラマーとして走った20代

BIPROGY株式会社(旧日本ユニシス株式会社)
取締役専務執行役員 CSO 葛谷 幸司氏

早 川

当時の日本ユニシスに入社されたのは、コンピュータに興味があったからですか。

葛谷氏

いや、実はそうでもなく、私は1983年頃から、たまたまコンピュータのオペレーションやダイレクトメールの封入などのアルバイトをやっていたんです。夜勤でアルバイト代がよかったので(笑)。当時は超大型メインフレームが各社に設置されていた時代。
そこで初めて目にしたのが、ユニシスの前身であるユニバックのコンピュータでした。「テレビでしか見たことがなかったものが動いている、凄いな!」と。
まだITという言葉はなく電算部門という部署名でした。会社の人に「プログラマーになればもっと実入りがいいよ」と言われて、それまで全く興味がなかったけれど、プログラミングを勉強しました。コンピュータの研修カリキュラムに参加させてもらったら、何とかキャッチアップできてプログラマーへの道に入った。その後「ウチ受けてみない?」と言われて入社試験を受けました。

早 川

プログラマーの先駆けですね。どんな仕事でしたか。

葛谷氏

入社は1985年、東証の取引高が毎月上がってコンピュータ処理が追い付かないというバブルの絶頂に向かう時代でした。当時、米国からコンピュータを輸入して販売していたのは当社とIBMさんぐらいで、まだシステムインテグレーション(SI)という事業はなかった。私の最初の仕事先は証券会社のコンピュータセンターで、コンピュータシステムの導入や保守を担当しました。証券会社さんに席をつくってもらい常駐して、お客さまのご要望に対応するサービスをしていました。

早 川

20代の経験で得たものは?

葛谷氏

今は「ビジネスはエンドユーザー目線で」といわれますが、当時の日本のコンピュータ産業は輸入販売の時代で、提供者目線でビジネスを行うことが多かった。しかし私は若いころから約7年間エンドユーザーの中に身を置いたので、自然とエンドユーザー目線を身につけることができました。

30代、銀行のビッグプロジェクトのプロジェクトマネージャーに

JAC Recruitment
執行役員 早川 徳二

早 川

キャリアアップのきっかけは何でしょう。

葛谷氏

当時、年に一度上司とキャリアについて話す機会があり、「今の部署からすぐに異動したい、ずっといたい、どちらでもない」の3択アンケートをとられました。私は、コンピュータシステムの導入・保守については勉強して一定のキャリアを積んだと考えていたので、次のステップに進みたいと「すぐに異動したい」にチェック。そこで地方銀行の開発プロジェクトに転勤になりました。
時代が変わって、IT企業がお客さまと一緒に新しい銀行システムを作るプロジェクトです。この頃からSIという言葉が出はじめ、単なるコンピュータの輸入販売ではなく、業務システムを構築する時代になりました。当時はまだ“働き方改革”といった言葉もなく、若かったこともあり、がむしゃらに働いて結婚もしました。仕事はプロジェクトマネジメント。いわゆる要件定義、仕様を決めて製造してテストする業務を一通り学びました。20代は自分の一人の力で仕事を進めてきましたが、30代になってからは色々な人をマネジメントしなければならなくなった。せっかく勉強して一人前のエンジニアになったので、エンジニアとしてのスキルを高めたい気持ちもあり悩みました。でも人間に与えられるもので唯一平等なのは「時間」。よくSI業界は〝人月ビジネス〝といいますが、100人月というと、1月あたり100人のマンパワーをかけること。
当時も今も尊敬する上司に「1人で頑張っても2人月しかできない。10人を使って10人分のパフォーマンスを出してくれ。先輩に遠慮していてはダメ」と言われました。1996年、32歳のときに課長になりました。

早 川

マネジメントについてはどこで学びましたか。

葛谷氏

先輩の背中を見て学びました。学びにはいろいろなスタイルがあり、体育会のように「俺の背中を見て学べ」という人もいれば、ロジカルに物事を捉えるタイプ、放置して何も言わない人も…。
当時の僕の想いとしては、まずは技術的な軸としてコンピュータを解ることが必要だ、と。その上で、人をマネジメントするにはその人を気持ち良くさせなければダメだから、ある程度の関わりを持ちつつ本人の自由を尊重するような自分なりのマネジメントスタイルを形成しました。
今の時代はコーチングを受けることもできるし、タイプ分けしてコミュニケーションを取りなさいと教わりますが、当時はそのような教育はありません。そこで自分の部下や、開発パートナー企業など、自分が相手の立場だったらどう思うだろう、どんな人にならついて行きたいだろうかと自問自答して、言葉を選んだり、指示の仕方を工夫したりしました。最初はエンジニアとマネジメントの仕事が半々だったのが、5年後にはスペシャリストからゼネラリストにシフトしました。仕事は楽しかったですね。パフォーマンスの成果を目の当たりにできる現場で、お客さまである地方銀行の実際のシステム利用シーンにも直接携わることができて、ものすごい達成感でした。

40代、幹部候補生になり、営業へ。

早 川

30代は現場のトップとして成果を出したわけですね。

葛谷氏

その後、40歳の頃に3年間、新規事業の立ち上げに関わって、初めて現場を離れました。 
同時期に、会社が勉強する機会を与えてくれたのが、当時20名ほどが受講した経営幹部候補生を育てるプログラム、会社としても初めての取り組みでした。
約8ヶ月間、1週間に1、2回講師が来て、仕事をしながら研修を受け、論文を書く時間も与えられました。そこでMBAのマーケティングやファイナンスの基礎などを叩き込まれ、ビジネススキルのベースができました。でも私はこういう性格ですからやっぱり現場に戻りたい。現場に戻って地方銀行のビッグプロジェクトのプロジェクトマネージャーとして大規模開発を統括しました。幹部は先輩ばかり。当時、メインフレームではなくオープンなプラットフォームで銀行勘定系システムを動かすというのは、IT業界でどこも成功していなかった。当社は2007年にWindowsの基盤上で世界初のオープン勘定系システム「BankVision(バンクビジョン)」を稼働させ、今では10行以上で採用されています。

早 川

次は初めて営業にいかれたとか。

葛谷氏

転機でした。ずっとエンジニア系でしたが2009年、45歳で金融第三事業部の副事業部長として営業部門に異動しました。きっかけは当時の社長。「開発現場を知らないので見たい」「意見があればメールを」と積極的に現場と接点を作ろうとしていたので、「プロジェクトメンバーの士気を上げたいので現場に来てくれると嬉しいです」と発信したら、「行くよ」とプロジェクト現場に来てくれた。
ビッグプロジェクトなので月1回報告する機会もあり、見ていてくれたようで、ある日社長室に呼ばれて「来月から営業を見て欲しい。ものづくりをした人間が営業をしたほうが売れるはずだ。お前ならできる」という話がありました。ずっとお世話になっていた先輩1人だけに打ち明けたところ、その先輩は「お前がいなくなるとこちらは困るけど、キャリア形成のためにもいいかもしれないし、社長の言う通りだと思う」と。それで思い切って営業に行きました。5年間、これまたキツかった(笑)。地方銀行担当だったので全国を飛び回り、月曜に本社でレポーティングして、火曜から地方へ行き、週末に東京へ戻ってくる生活です。モチベーションは新規顧客を受注すること。
おかげさまで私が営業に行ってから、新規のお客さまを3行受注できました。先行のお客さまでシステムが安定稼働していたので、スタビリティ(安定性)やユーザビリティ(有効性)が担保されていたというのも新規受注できた要因です。この成果が自分としての納得感になりました。

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