30人の町工場から世界のトップへ

NITTOKU 株式会社
(旧日特エンジニアリング株式会社)
代表取締役社長 近藤 進茂 氏

NITTOKU 株式会社(旧日特エンジニアリング株式会社)は1972年設立。自動車、スマートフォン、テレビや電子機器、医療機器、産業機器など電気で動くあらゆるものに不可欠なコイル、モーターを製造する自動巻線機メーカーとして不動の地位を確立。近年は、巻線の要素技術から精密ファクトリーオートメーション設備へと領域を広げている。国内の生産拠点の他、中国、台湾、シンガポール、ベトナム、アメリカ、韓国、ヨーロッパと世界にネットワークを持ち、海外売上が70%に及ぶ。近藤氏は創業2年目から参画。営業時代は脅威の営業成績をあげ海外展開を牽引。高度成長期、バブル、デフレの時代を勝ち続け、なお未来へ鋭い目を向けている。

NITTOKU 株式会社
(旧日特エンジニアリング株式会社)
代表取締役社長 近藤 進茂(こんどう のぶしげ)

1943年福岡県生まれ。学生時代に政治家を目指す。卒業後にレジスター製造会社に入社し、セールスで最高成績を達成。20代で色々な修羅場をくぐり抜け、27歳で営業所長に抜擢。32歳の時に、他社からスカウトの話があり、転職を決意。その会社に入社する前の期間にアルバイトで働いていた当時の日特エンジニアリング(株)で製造業の面白さを知り、スカウトを断り正式に入社。同社でもセールスの最高成績を記録し、営業部長となる。海外進出の陣頭指揮をとり、国内外でトップシェアを達成。5年で売り上げを5倍増にし、1998年より現職。座右の銘は「知行合一」。

どん底を知れば失うことなど何も怖くない

近藤さんの生い立ちを教えてください。

私は8人兄弟の一番下に生まれて、生後半年で父親が他界しました。疎開先で、食べる物は自分達で山に取りに行ったり、川で魚を獲ったり、百姓をしたり。皆が貧しい時代だったので、貧しいとは感じなかったですね。戦後、都会に出て商売をしながら必死に生きる母親の姿を見て育ち、教育には熱心だったので学校にも行かせてもらいました。月謝が400~500円の時代に、3,000円の奨学金をもらって高校に行きましたが、勉強よりもラグビーを一生懸命やって(笑)、卒業後はほとんどの人が就職する中で大学に進学しました。

学生時代は、奨学金と生活費や学費を補うために、輸送船の荷物の積み替えをするアルバイトをし、1日船で荷揚げ作業をすると通常のアルバイトの3~5日くらいの日給が貰えました。当時は安保闘争で学校閉鎖中だから、レポートを書けば単位が貰えた時代。学校に行っても勉強はそっちのけで麻雀とか、ドヤ街に行って労働者達と酎を飲んで仲良くなって、泊まったこともあります。そんないわゆる社会のどん底を知り、これ以上どん底にならないということが、何をしても食べていけるという自信になりました。

31歳で、10名を引き連れて町工場に転職。「まずは、ここを日本一の巻線機の会社にしよう」

どういう経緯で就職したのですか。

そんな生活から一転、大学3年生の終わり頃から政治家を志し、代議士の秘書をやっていましたが、その先生が亡くなったことで政治家の道を諦め、就職しようとレジスター製造会社の営業マンになりました。27歳から神戸の営業所長、松山の所長もやりました。社長に「こう改革をすべきだ」と直訴したことは1度じゃありません。最後はある企業からスカウトが来て辞めたのですが、当時は生意気で、スカウト先に入るまでの期間にアルバイトをしていた当時の日特エンジニアリング(株)で、製造業の面白さに惹かれ、スカウトの方を断って正社員として正式に入社しました。当時は従業員30人、創業来2年目で、年商2億5000万円の巻線機を作っている町工場でした。前職で10年ほど営業経験があったので、平社員で入っても負けない自信がありました。

転職は31歳、日特エンジニアリングのどこに魅力を感じましたか?

当時、顧客の大手電機メーカー社員数人が、当社に泊まりがけで仕事に来ていました。どうしてこの小さい会社に、そんなに労力をかけるのだろうと疑問に思い、直接そのメーカーの社員に聞くと「今後、3C(自家用車、カラーテレビ、クーラー)にはコイルやモーターが不可欠だから、絶対、伸びるよ」との答え。上顧客である大手企業の担当者が言うのだから間違いないと思いました。

将来性を感じて入社しようと腹をくくった時点で、この会社をまず日本一の巻線機の会社にしようと決意。そのためには、他社に勝たなくてはいけない。それには販売力と技術力、製造力が重要で、ダントツでないと潰される。当時一番の老舗巻線機会社がある中で、まずは業界No.1になろうと決意。我々は後発メーカーなので、怖いもの無しですよ。まずは前職の上司や部下を10名ほど引き連れて来て、圧倒的な営業力で売上を伸ばしました。ただ当時は技術力が弱かったので、私は当時高い技術力をもつ海外メーカーと提携し、設備を作り上げ技術力アップを図り、売上を伸ばし、そこで得た利益を投資してさらに技術力向上に努めました。売上が10億円ほどになり、私は営業部長になりました。その後も拡大を続け1989年には株式を上場し、日本だけではなく、世界でもトップシェアを達成しました。

モノづくりは人づくり。失敗することで、人は学習し、知識は血肉となる。

早くから海外展開をして現地採用をしていたとか。

私は時代の流れに乗っていくことが最も重要だと思っています。流れに乗れば、自分の力を超えた成果が出せます。当時はバブルで円高になる中で、設備を海外で売るにはメンテナンスが重要となります。現地に行ってサービスをしないと、長期的には勝てないと考え、海外展開を始めました。まずは韓国。テレビ隆盛の時代には、テレビのブラウン管の設備を造ってずいぶん売りました。韓国の大手家電メーカーでは、我々と同じ世代が日本の所長になっていたので、関係を築いて人脈を広げました。次は台湾、シンガポール、マレーシア、後にタイ、それから中国。当社はお客様企業が海外進出すると、一緒に海外に出て、現地人を採用して育成するというやり方をしてきました。モノが行ったら必ずサービスの拠点をつくる。モノづくりは人づくり。人をつくらないと、良い設備・良いサービスは出来ません。それを早くから実践したことが当社の大きな強みになったと思います。

当時、社内には海外に強い人材がいなかったので、歌が上手い社員を連れて行きました。歌が上手い人は耳が良いから現地の言葉をすぐに覚えられます。しかし、日本人が行ったのではコストが3倍もかかります。しかも言葉や文化、歴史も分からない人に、現地の長は務まらないと考え、現地採用した人たちを育成し、徹底的にサービスを教え、その中からトップを選ぶ。そうすれば“日特イズム”を持った人が海外でも育っていきます。
我々設備メーカーのお客様は一流企業が多く、そのトップと直接話をして、仕事や食事をすることで、現地の人間も育ちます。最初は頼りないかもしれないが、色々な交渉力を身に付け、磨かれていくうちに責任感も湧いてきます。もちろん失敗もあるが、知識を知恵に替えるのは失敗から得るもの。失敗しない限り、知恵は身につきません。

近藤さんの組織づくりの信念とは?

会社・組織は、時代ごとに変化するもの。我々の生まれた時代と、モノが満ち足りた今の社会とでは環境が全然違います。昔は子どもの頃から家庭や地域に、怖い親父がいたり、ガキ大将がいたり、喧嘩したり仲直りしながら自分の身を持って不安や痛さ、失敗を体で覚えてきました。座学で覚えるものではありません。仕事でも失敗して、冷や汗もかくからこそ、知識は身体の血となり肉となり、初めて本物の知恵になると思います。そういう意味では当社は、徹底した現場主義であり、現場からリーダーが育ってきて組織の長となっている人間がほとんどです。

Topページへ