コロナ禍を乗り越えた観光業界。旺盛なインバウンド需要を背景に、再び成長局面を迎えています。その中でも「ホテル椿山荘東京」など、名門ホテルやリゾート施設を日本全国で手掛ける藤田観光が業績を大幅に伸ばしています。
成長の背景にあったのはコロナ禍に実施した大幅な構造改革と商品力強化による収益力の向上。当時、ホテル椿山荘東京で指揮をとったのは、2024年3月に代表取締役兼社長執行役員に就任した山下信典氏でした。1984年入社以来、一貫して藤田観光でキャリアを歩んだ山下氏にこれまでの歩みをうかがいました。
学生時代から観光業界に関心があり、国際観光専門学校に進学しました。卒業後は、海外に住み日本人旅行客を受け入れる添乗員やオペレーターになりたいと、旅行代理店への就職を考えていました。しかしながら、家庭の事情により、本意でないながらも地元の三重県に戻ることにし、1984年に藤田観光へ入社しました。
最初に配属されたのは三重県鳥羽市の旅館です。110部屋と比較的小規模だったこともあり、スタッフはフロント、企画、営業と縦割り分業では無く、マルチに業務をこなす必要がありました。
私自身も商品を自ら企画し、営業に出て受注を取り、施設でお客さまを受け入れるという仕事を一気通貫で担当していました。お客さまを獲得する流れからバックヤード業務の流れが把握できれば、ホテルの仕事の基本は理解できます。
一方でフロント、客室担当、料理担当と、自分の前後にある工程を把握しながらお客さまの情報を適切に担当者間で申し送りできるようになると、施設に対するお客さまの総合満足度にも良い影響を及ぼします。そういった意味でも幅広い業務を経験することは、サービス全体の品質を高める面でも大きな意味がありました。
20代後半になる頃には施設の予算策定や事業計画も任されるようになり、この頃の経験が経営者としての基礎になっていると思います。海外で働くことを諦めた就職でしたが、実際に働いてみると、その仕事のおもしろさにのめり込んでいったのです。
13年いた鳥羽から本部に異動になったのは1997年のことでした。当時はバブル崩壊後の景気低迷期。リゾート事業部が管轄していた不採算施設の撤退や再開発を担当することになりました。
最も印象に残っているのは伊豆大島にあった大島小涌園の閉鎖です。施設の閉鎖は自社だけで済む話では無く、地域経済や地元の雇用も絡んでいるので、決して簡単なことではありません。そこに歴史もあれば、社員の暮らしもあり、地域社会への貢献もあります。
当時はまだ一介の社員だった私が現地に赴いて社員に説明し、一人一人と面談して異動先や再就職先の斡旋に駆け回りました。なかには大島を離れる当日に「やっぱり島を出たくない」という社員のために、地元の町長に相談して島内での再就職先を探したこともありました。
その次に担当したのは箱根小涌園の再開発プロジェクトです。箱根小涌園は2000人が宿泊できる大規模な施設でしたが、建物の老朽化などの問題から再開発が決まっていました。ここでも300人近い従業員の異動先を調整するなど再開発前に避けては通れない清算業務をこなしていました。今振り返ると、後につながる貴重な経験を積めたことに感謝していますが、当時は大変な仕事を任されたという気持ちの方が強かったですね。
箱根小涌園ユネッサン時代の山下社長
施設の閉鎖だけでなく、同時期にいくつかの施設の新規立ち上げにも関わりました。最も記憶に残っているのは2001年に開業した「箱根小涌園ユネッサン」ですね。当時39歳になった私は箱根小涌園の営業企画担当課長になり、2003年7月に支配人に昇進しました。
大阪の太閤園(現在は売却済)の総支配人になったのは2017年のことでした。太閤園は関西における代表的な宴会場・結婚式場であり、60年以上の歴史を持つ施設でした。当時、太閤園は藤田観光の子会社でしたが、関西圏内の複数のホテルが独自に敷いていた人事制度が混在していて、給与水準も統一されていない状況でした。私は1年半をかけて人事制度を一本化し、ベース給の水準において藤田観光を上回るテーブルを設計することで、社員が進んで管理職、課長や支配人を目指したいと思える環境を作りました。こうした組織改革を進めた結果、業績を大きく伸ばすことに成功しました。
大阪は万博やIR誘致など前向きな話題も多く、目の前にあった藤田美術館が2022年にリニューアルする工事も進んでいました。太閤園でも新たなホテルの検討など、都市型のリゾートホテルとして更に進化させる計画があり、私のキャリアも大阪で有終の美を飾って終わるのだと思っていました。
しかし、2020年に総支配人としてホテル椿山荘東京へ異動することになりました。年初の時点では東京オリンピック・パラリンピックを控え、夏頃まで予約が埋まっている状況でした。しかし、急速に新型コロナウイルス感染が拡大し、1回目の緊急事態宣言が発動した頃には客室稼働率が急激に下がるなど、状況は一転しました。従業員の感染リスクも考慮し、ゴールデンウィーク明けから1ヶ月間休業することを決めました。並行してコロナ禍に対処するための組織改革とブランド力・商品力強化を進めました。
組織改革で重視したのは、不自然な形になっていたものを元に戻すことでした。目先の改革だけをしていても、大きな成果にはつながりません。まずは土台となる組織や人事、体制を改革した上で、商品力を高めようというのが基本戦略でした。
非常事態だからこそ、迅速に決断・実行できるよう組織体制をスリム化しました。また、商品開発力を向上させるべく社内組織を再編し、マーケティング部門を強化しました。庭園に霧を演出する「東京雲海」を2020年秋にスタートさせたのも、こうした改革の元で生まれた新しい企画です。施設の目玉となる新しい商品を開発し、旅行代理店やメディアとのネットワークを駆使し、プロモーションにも注力した結果、大ヒットにつながりました。
このように一点集中ではなく、組織も商品も新たに作り、市場に打ち出す方法も変えて、投資するといった多面的なアプローチが成功した理由だと思います。最初こそトップのリーダーシップと一定の辛抱が必要ですが、成功事例が一つ、二つと生まれた後は、現場に権限委譲していけば組織の士気も高まります。
また、売り方の面でも大きく見直しました。それまでのホテル椿山荘東京は稼働率を重視する戦略でした。そこで単価アップを狙った商品開発に注力し、稼働率ではなく営業利益を重視する方針に切り替えたのです。コロナ禍が収束してからは、いずれの業界でも単価アップが課題となっていますが、ホテル椿山荘東京ではいち早く付加価値の高い商品を生み出す方向に舵を切っていました。
こうした改革を現場の理解の元で積み重ねた結果、2023年には業績が大きく伸びました。一定の成果が出るまでには3年の期間を要しましたが、想定よりも早く立て直せたと感じています。今までの安く大量に売るという消耗戦から抜け出して、高付加価値なサービスで収益力を上げるという戦略を、トップだけでなく現場まで理解して実行できたことが要因だと思います。
代表取締役に就任しましたので、これらの経験を生かし、各事業のバリューを高め、グループ全体の成長に取り組んでまいります。
社長就任の際には、チャレンジ精神を持って仕事に取り組む姿勢を全社員に伝えました。付加価値の高い商品を生み出すためにも、即断即決で進めよう。失敗したら元に戻せば良い。5つトライしたことの中から1つでも当たれば良いのだから、チャレンジしようという方針です。
それは私自身が藤田観光で経験したことです。チャレンジの回数が多かったからこそ、今の私があるのだと思いますし、チャレンジしないことには仕事は楽しくなりませんよね。何かを変える際には弱みに向き合うのではなく、強みを伸ばすことに専念するべきだと思います。弱みを克服するのは非常につらい作業であり、儲からない結果になりがちです。であるならば、自分たちの強みを定義して、伸ばしていった方が周囲にも良い影響を与えられると思います。環境や道具が時代と共に変わったとしても、本質は昔と変わりません。変革に必要なのは共感の輪を増やしながら、成功体験を積み重ねていくこと。そして、最後までやり切る気持ちをリーダーが示し続けることだと思います。