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株式会社SELTECH
代表取締役社長 江川 将偉 氏

2009年、リーマンショック直後に江川氏が起業したベンチャー企業、SELTECH。自身も宇宙工学を学んだエンジニアである江川氏は、セキュリティをキーワードに新しい発想でAI、IoTなど新時代のソフトウエアを牽引。顧客には大手メーカーが名を連ね、2017年秋のG7では経済産業省から日本代表として選出。2020年には国内で約13兆8000億円の成長が見込まれるIoT市場において、今後の同社の動向に注目が集まっている。

株式会社SELTECH
代表取締役社長 江川 将偉(えがわ しょうい)

1977年生まれ。大阪府出身。カリフォルニア州立大学航空宇宙工学専攻、(株)PALTEK、(株)トーメンエレクトロニクスを経て2009年に(株)SELTECHを設立、代表取締役社長に就任。

起業への道をプランニングして歩んだキャリアパス

アメリカの大学を出て日本で就職されたとか。経歴を教えてください。

アメリカの大学で4年半、宇宙工学を学んで日本に戻ったのが22歳頃。理由はいくつかあります。日本の企業からの熱烈なアプローチがあったのと、当時好きな女性がいたのもある(笑)。仕事もそうだけど、惚れ込むと、とことん打ち込んじゃうタイプ。その人には振られちゃったけど、さて日本でどうすると自問して「アメリカにいた時に、向こうの人に色々してもらった恩を返したい。それは、会社を作ることだ」と思い至りました。そこで起業までのステップを描き、営業3年、マーケティング3年、マネージメント3年、経営3年を経験して会社を作ろうとプランニングしました。

9社から内定をいただいた中で、一番学べる会社はどこかを考えて半導体専門商社のパルテック社に入社。営業を経験しました。そして3年後、次のステージでマーケティングを学ぶため、トーメンエレクトロニクスに転職。当時26~27歳で、ベンチャーか大手か迷いましたが、大手の仕組みを学ぼうと、大手に決めました。3年後にマネージメントを学ぼうと思っていたところ、会社が25人ぐらいの新部署を任せてくれることになり、マネージャーになりました。

すごい、プラン通りですね!30歳前にマネージャーで、どんな仕事をしていましたか?

マネージャーになったのは29歳の時。上司に呼ばれて、「20代で部長やれると思ってる?」と聞かれて「思ってます」と(笑)。別に役職が欲しい訳ではなかったのですが、大手企業にとっては若すぎるということでしたね。でも課長職ではありましたが、部門を1つ持たせてもらいました。
当時、半導体を扱っている会社が400社ほどあって、商売を成長させるには、ただ売るだけではなくソリューションを提供するべきだと思い、社内にある半導体を全部かき集めて、ものを作れば付加価値がつくと考えました。ちょうど地デジへの移行時期。アナログからデジタルの転換期で、日本のメーカーはすぐにデジタルに移行することは難しかった。そこでソリューションをパッケージにして提供するビジネスを始め、売り上げをパッと数十億伸ばしました。まあ、成功ですかね。

日本のものづくりの魂をソフトウェアに込める

ちょうどその頃、半導体にソフトウェアを無料でつける会社が現れて、テレビメーカーはそのソフトを使うようになった。ソフトウェアの出来としては20%程度でも、日本のメーカーが日本のエンジニアでコストをかけて開発すると、製品クオリティは90%にあがる。でもそのソフトは日本製ではなく台湾や中国製。ソフトはコピーをするように、どんどん広がっていく。日本のほとんどの企業は、それまでものづくり産業で生きているので、製品の9割がハードウェア、残り1割がソフトでしたが、デジタル化が進むと製品の8割はソフトでハードは2割。それを理解していない企業がほとんどで、どんどん台湾や中国に流れていった。そこにリーマンショックが起こり、企業は派遣切りを始め、日本の産業が崩れるかもしれないと思った。手を打つにも、大手だからどうしても動きが鈍くなる。「これは自分でやったほうが早い」と、翌年の2009年に自分の会社を興しました。

日本にものづくりの魂を残さないといけない、と思ったのが大きなキッカケです。会社の大きなコンセプトは、“誰でも真似出来るソフトウェアではなく、ものづくりに携わるソフトウェアをつくること”になりました。だから、当社のエンジニアは、いぶし銀みたいな匠が多くて、リーマンショック後、仕事がほとんど無くなっても一緒に残っていてくれて、エンジニアの離職率はすごく低い。日本のものづくりを支える、魂を込める場所がソフトウェアになったということ。これが根幹です。私の仕事に対するモチベーションは、「何かをして、世の中のためになりたい」というのが主軸。いま日本の国内展開をしているのも、日本の国が良くなるために、こういう技術を取り入れたほうが良いという思いがあって取り組んでいます。

起業当時は苦労したこともあったのでは?当初から具体的な技術や製品のイメージはありましたか。

社長なので、まずは皆に飯食わさなきゃいけない(笑)。悩みながら事業を模索していました。会社のコンセプトとして3つの事業、“食える事業”と、“食えなくても支え合う”2本以上の柱を建てたいと考え、ハードウェアをやっていたこともあります。サラリーマン時代からお付き合いいただいていた企業の方たちが「江川さんを助けたい」と言って、取引きをしてくれました。やはりお客様を大切に付き合っていれば、何かを返してくれるんだなと実感しましたね。人との繋がりを大事にしてきたので、売り上げやキャッシュフローで悩むこともありましたが、何とかなるだろうと考えていましたね。

起業当時から、地デジのミドルウェアの仕事は抱えていました。日本は地デジにシフトするタイミングで日本のテレビや黒モノ家電はまだ変わるから、チャンスはある。でもミドルウェアはけっこうコピーで真似出来てしまうので、真似出来ないものを模索していました。海外はまだこれからデジタルという時期で、海外企業とタイアップしてソフトウェアを作ったりもしました。

飛躍したきっかけは、どのような仕事でしたか?

1つはソフトウェアのHypervisor。やはりお付き合いのあった企業から「売り出し中のTrustZoneを使って面白いもの作れないかな」と声をかけてもらって開発を始めたのがきっかけです。TrustZoneはソフトバンクがARMを買収した時に「世界最強のセキュリティ」だとコメントしたほどの技術。すぐにデータ一式を送ってもらうと、自分もエンジニアなので、ワクワクしてきて「これは仮想化技術をのせられそう」とピンと来て、当社のエンジニアに「これ、Hypervisor作れるよね」と持っていった。当時から組み込みのHypervisorはあったけどCPU偏重で成功事例が無かったので、そこからTrustZoneを使ったソフトウェアを作り始めました。

これが大きく実を結んだのがIoT。私は2009年当時から「今後ネットワークと社会がつながる」という話をしていました。その頃はユビキタスネットワークとかM2Mとかありましたが、しっくりくるようなビジネスモデルを描けている人がいなかったと思う。3年前にIoTにセキュリティ対策が必要だとなった時、テレビやパソコンはかなり高度なCPUを使っているので、セキュリティ対策をすることも出来た。ところがIoTで冷蔵庫やエアコンなどをネットワークに繋ぐとなると、CPUによるセキュリティ対策が出来ない。アンチウイルスソフトも入れられない。そこで「Hypervisorを使えばセキュリティ対策が出来るのでは?」ということになり、組み込みのHypervisorを動かしている我々の会社に白羽の矢がたった。今では大手企業数社と提携の話も進んでいます。私自身もエンジニアですが、やはり当社のエンジニアが優秀だから出来ることだと思います。

もう1つは車の音声認識から始まった人工知能。自動車メーカーと早くから開発をしています。加えてHypervisorを使ったセキュリティの技術があれば車の中身を見ることができる。それは車のデータがどう動いているか解るということなので「この技術があれば車を走らせられるんじゃない?」と発想の転換をして、自動運転の開発にも発展しています。

江川流、ノミニケーション

江川さんの先を見る目と斬新なアイディア、そして行動力があってこそですね。取引先から江川さん指名で仕事が来るのは、人との繋がりがあればこそだと思いますが、人付き合いも結構時間がかかりますよね。

私は俗にいうノミニケーションをすごく大切にしています。飲みの席で仕事の話をすることも多く、お客様やパートナーとも結構飲みに行きます。何か相談されればアイディア出しもやりますが、それを全部自分で商売にしたいとは思っていない。自分のテリトリー内のものは自分でやりますが、それ以外もどんどんアイディア出ししますね。そういう意味で、安心して話をしてくれる方も多いです。

最近はお客様も分かってきてくれて、「ビール一杯、一千万ですね、何杯飲みますか?」と冗談が飛ぶことも。そこでの話が、後に仕事になることも多い。それはお客様や取引先と人間関係が出来ていないと実現しないこと。私はエンジニアだからでもあるけど、ひょんなところからお題を投げられると、チャチャッと考えて「こうすれば面白いもん出来るよ」と返しちゃう。考えることが好きなんですよ。そんな発想の部分が大きいけど、実際に組み立てられるエンジニアが社内にいるのも大きな強みですね。

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