常に夢中で学び続けて、
プロになれ

カルソニックカンセイ株式会社
常務執行役員 近安 理夫 氏

経営を意識し始めた30代

これまでの仕事について教えてください。

90年に入社し、日本で基礎を身に付け、4・5年目で韓国に1年半仕事で行きました。その会社は今では大企業ですが、当時韓国オフィスにはまだ2、30人しか人がいませんでした。仕事があっても、コンサルタントを手配ができていない状態だったので、グローバルなチームを作って仕事をすることになりました。当時の韓国は日本に追いつけ追い越せの時代だったので、日本の事情に詳しい人が必要でした。会議で日本企業の考え方を伝え、意思決定に関与していました。韓国の工場では、先月まで日本企業で働いていた人もいました。日本人は色々な意味で重宝されていたのです。
韓国から帰ってきてしばらく日本で仕事をしていましたが、石油関係の仕事をするようになって、ヒューストンへ。そしてそのまま次の仕事でドイツへ。業務プロセスは競争領域ではないので、効率の良い手法を開発しようと世界中の超大手の石油会社が集まり、効率の良い業務プロセスとシステムの雛形を作製しました。その後日本に戻ってきてからは、短期間の海外出張を繰り返しています。

当時は何のために仕事をしていたのですか?目的などはありましたか?

とにかく、コンサルタントとして誇れる大きな仕事ができたらと思っていました。 就職した時は、アクセンチュア株式会社で1年も働けるかどうかの状況でした。「最初の研修を乗り越えた」「3ヶ月乗り越えた」「今日もクビにならなかった」「今日もお客様から、帰れと言われなかった」そんな毎日が積み重なっていきました。
社内の評価なんて気にしませんでした。とにかく、「今クビになっていない自分は立派だ!」と思い続けました。そんな日々を過ごし、振り返ったらいつの間にか力がついていました。歯を食いしばって頑張っていたからだと思います。
周囲は自分より学歴もあり、軽々と仕事をしていました。私は深夜に帰宅し、それから勉強を続けました。そうしないと「明日クビになる」と思っていたので、人より時間を使って勉強しました。1日3時間の学習を365日、それを10年間続けると10万時間になります。何かのプロフェッショナルになるためには、10万時間学習する必要があると言われています。今でもこの習慣は身についていて、家に帰ってからも何か学んだり本を読んだりしていて、知的好奇心からか学ぶのが癖になっています。

コンサルティングというお仕事のどの部分におもしろみを感じていましたか?

入社当時は、『普通の会社の倍の速さでスキルアップができ、3年経ちマネージャーになったら違う会社の経営をやってみたい』などと思っていました。しかし、実態は日々生き残っていくのに必死な毎日の繰り返しでした。無我夢中で取り組んでいたら、気がついた時には様々なことをやっていました。
私が20代でも、お客様は取引先の有能な部長や課長です。コンサルティングという仕事はそれなりのお金をいただくので、当然クオリティが求められます。その方々にも本気で怒っていただきながら鍛えられました。成長しないと生きていけない環境は力になりました。

MBA取得はどのようなきっかけで行かれたのですか?

色々な仕事がひと段落した時点で、一旦知識を整理したいと思いました。日本の企業、欧米の企業、それぞれに強みがあります。日本の企業では一人ひとりのレベルは高くても、全体としての成果は海外のほうが高いことがあります。その理由のひとつとして挙げられるのが、マネジメント力です。経営者のリーダーシップや決断力の違いなどが関係しています。
MBAは、有能な将来を嘱望されたリーダー候補が集まる場所なので、そういう人の心構えや価値観、意思決定の方法、更には意思決定を早くするために何を捨てているのかも知ることができると思いました。

経営自体に興味を持ち始めたのはいつからですか?

アクセンチュアで13年目の頃、組織全体の効率化やマネジメントをするなど、ある大きなプロジェクトに関わりました。この、新しい組織の立ち上げを何もないところからするという仕事をした頃から経営側の意識はしていました。

初めて役員になったのは2002年で当時36歳ですね。きっかけは何でしたか?

1兆円規模の企業同士の、業務や組織やシステムを1つに統合する仕事をしました。そこで、新しい会社のための業務プロセスやシステムを作るプロジェクトリーダーをしました。 本当はそのプロジェクトの前にMBAに行く予定だったので、3ヶ月の立ち上げだけをする予定だったのです。しかしやってみると「コンサルタントでこんな大きな仕事のチャンスはない!」と思いそのまま続けました。結果的にその仕事が評価され役員になりました。

新たな環境を求めて転職へ

アクセンチュア株式会社を退社後、HOYA株式会社入社しグローバルCIOに就任されています。転職の背景を教えてください。

20年も同じ会社にいれば、様々な産業のコンサルティングを行ったり、アクセンチュアの中でも組織を作り上げたり、色々な仕事を経験できました。しかし、組織の上のほうになってくると、どうしても現場から離れてしまいます。東京オフィスの役員であっても、グローバルな視点で見た場合、アジアのトップ、グローバルのトップがいます。自分の仕事時間の3分の1は部下に関する仕事、他の3分の1は上司への報告、残りの3分の1がコンサルティングになってしまい、成長の刺激が少なくなってしまったのです。
また、コンサルタントは、お客様の変革をあくまでサポートする仕事です。自分で意思決定はできず、説明責任を持つ必要もありません。もしアイデアが10あったとしても、お客様とは背景も異なり、人と人ですので、理解してもらうのは8くらいになります。経営会議にかけると5くらいになり、現場レベルへの実施となると結果的に3くらいになってしまうのが現実でした。「自分でリードすると、もっとやりたいこと、やるべきことが出来るのではないか」と思ったのが転職のきっかけです。

この頃、80歳まで働くビジョンを作りました。80歳になって週5日働くのは無理ですので、将来は大学でトレーナーになり、次世代育成をしたいと思っています。そう考えた時、外資系の大企業という経験だけでは、人前で話す時にあまりにバランスが悪いと思い、色々な企業を経験する必要もあると考えました。そこで、日本ならではのモノづくりをしている、中堅企業でグローバルなプロジェクトのリーダーを探している会社を、ということで色々ヘッドハンターと話している中で、HOYA株式会社をご紹介頂き、選択することにしました。他社を買収したばかりで、業務プロセスがバラバラになっており、グローバルに統合するためのリーダーとしての入社です。

入ってみると、とてもグローバルな会社でした。仕事内容はコンサルタントの頃と同じだったのですが、自分で決められるし、言い訳もできないし、心持ちが全く違いました。

HOYA株式会社は当時5000億円以上の売上の会社で、SBU (strategic business unit)が12個に分かれており、それぞれが独立した会社のように事業運営しています。12個の会社にそれぞれ役員がいるので、まとめるためには36人や48人を説得して、利益を約束することで協力してもらい、進めていかなければなりません。コンサルティングの仕事はネタづくりだったので、説得の仕事はやりがいがありました。当然、説得相手は日本人だけではなかったため、様々な国の人の中に飛び込んで仕事をしました。

文化の違いもあったと思いますが、いかがでしたか?

ものすごく大変でした。本社は敵だというイメージを持たれていたので、「まず自分は敵ではない」というところを伝え続けました。自分がどんな経験をもっていて、どういう風に彼らのビジネスに貢献できるのか探し、納得させることを心がけました。彼らの関心は収益やフリーキャッシュだったので、統合することでどう貢献できるのかと数字とストーリーで示しました。まずは自分を信用してもうところから少しずつはじめ、一緒にお酒をのんだり、バーベキューをしたり、個人的なつながりも作りながら取り組んでいました。

これを5年間続けられたのですね。大変な環境だったかと思います。今現在に結びつく経験はありますか?

結論、何も怖くなくなりました。コンサルタントをしていて一番大変だったのは、統合のプロジェクトです。私がした仕事ほどの経験をした人は、まず誰もいないと思います。HOYA株式会社にはトップが上にいて、仕事内容もちゃんと定義されています。12の独立した企業がある状態で、本社の立場はあまりなかったため、自分でポジションを作り出さないといけないのが大変でした。世界中の様々な国のリーダー人と付き合った経験は、他では味わえないでしょう。

自らの経験を生かし、社会に貢献していく

HOYA株式会社から現職であるカルソニックカンセイ株式会社へ転職されましたが、その背景や、今後やってみたいことを教えてください。

仕事を通じて様々な経験をしてきたので、その経験を広げ貢献したいと思っています。日本の製造業をもっと強くする仕組みを作れないかと考えています。日本でモノづくりというと、自動車産業は世界でもトップランナーです。その産業の中で働いてみたいというのが、現職を選んだ理由のひとつです。また、弊社は日産から独立し、外国人がトップになりました。これから、自動車産業でいろんな改革を仕掛けていくところです。そこで私のいろんな経験が生かせるのではと思いました。様々な力を必要としているし、やらせてもらえる会社なので、私の経験も生かせて貢献できると思っています。

会社としてこういう姿にしていきたいという、具体的な像はありますか?

グローバルといっても、まだまだアメリカはアメリカ、日本は日本という国同士、地域同士がパイプでつながっている状態の会社です。日本発でグローバルな会社が出来ればいいなと思っています。 現在、情報システムと業務プロセスの改善をしているところですが、この2つは全ての領域に関わってきます。私は自動車の経験は全くないので、世の中の方向性を踏まえてどの製品を開発していくのかなどということは専門ではないので分かりません。しかし、それをサポートする業務プロセスや情報システムをデザインすることは出来ます。そういう点で私の力が発揮できると思っています。

根底に、日本の企業を強くしていきたいという想いがあるのですね。

海外経験があるからかもしれませんが、日本が恥ずかしい国であってほしくないです。日本は人口が減っていくかもしれませんが、日本は「誇りのある国」であってほしいです。日本にはたくさんの良い会社があるのですが、良い会社には勝ってほしいとも思います。いい会社が負けていては話にならない。世界に良い会社が増えていくようにするために、良い会社は勝たないとダメだと思います。日本の良い会社に強くなって勝ち続けてほしいと思います。

経営者としての判断の軸は何ですか?

会社それぞれのミッションを判断軸にしながら、物事の本質的な原理原則を常に意識しています。軸は普遍的なものであるべきです。例えば、カルソニックカンセイは80年の歴史があり、日産の文化からも影響を受けながら育ってきています。今まで「日産がこうしてきたから」という文化もありますが、今の時代に合っていないかもしれません。なぜ日産がそうしてきたのかという原理原則から考え、自動車部品会社のカルソニックカンセイに本当に合うものなのかどうかを見直さないといけない場合もあります。私にとっての拠り所は普遍的な原理原則です。

次世代リーダーへのメッセージ、伝えたいことは何ですか?

私は実際、明日クビにならずに帰って来られるのかという環境の中で、本当に必死にやってきました。長い目でキャリアを考えるのもいいのかもしれませんが、この先世の中がどうなるのかは全く分かりません。こういう社会情勢の中で、普遍的なスキルは絶対若いうちにしっかり骨身につけたほうがいいです。そして、何かのプロになろうとすると、仕事以外に1日2~3時間、毎日何かを学ぶと10年経つと、周りとまったく違った成長を遂げられると思います。

目の前のことを一生懸命し続けるということですね。

そうですね。本当に今日のこと明日のことばかり考えていました。仕事に熱中しすぎて、家庭を顧みる余裕が無かったので、一度立ち止まり80歳まで仕事をする計画を立てました。コンサルタントとしていくつかプロジェクトを経験し、バランスのとれたキャリアができたら65歳から70歳くらいに大学に戻って次世代を育成しようと初めてキャリアプランを描きました。私は仕事が好きなので、社会とずっと繋がっていたいと思っています。 何か価値を残している間は生きていたい。そして生きている限りは価値を残したいです。

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